昭和51年05月25日 朝の御理解



 御神訓 一、
 「我が身が我が自由に成らぬものぞ。」

 今朝、しきりと御祈念の時にもう半年も前でしょうか、ある教会の御総代さんが参ってみえて、自分の教会の振るわない事をお取次ぎを願われて、どこに間違いがあるなら、人が助からんのだろうかと言う様な事であった。実を言うたら、私自身そのその方は信徒会長さんで、おおやけの御用なんかも大変熱心に出来ておられる方なんです。その私自身は助かっておる、大変なおかげを頂いて助かっておる。けれども教会が一向に発展しない。お導きをしても助からんからすぐ辞めてしまうという訳なんです。
 でその事のお取次ぎさせ頂いた時の事をしきりに頂くんです。そん時私が頂いたのが、あのう応接間にあのうこう長いのと一人一人腰掛けるのがセットになっておりますね。そういうこじんまりとした応接間なんです。その長い方の応接間に虎がこうやって、その寝とるところを頂いたんです。でそこのドアを開けて何人かの人が入ろうとしたけれども、その虎がそこに寝とるもんだからびっくりしてから、またドアを閉めてから出て行くところを頂いたんです。どういうことでしょうか。
 虎といえば大体私は寅年ということだけれども、それでも無かごたるそのこう長く寝とこのというところが。そしたらその総代さんが言われるとですもん、はぁそれは違わん家の先生の事でしょう。やっぱ寅年だそうです。そしてそのう朝からお神酒を頂かなきゃいけんそうです。それで朝からもうぽっぽしちゃるとだそうです。それで中々その良うお取り次ぎをされるんだそうですけれども、その信者がいみわないという訳なんですね。はぁあのう酒をあのう飲んであのう酔い潰れとると虎になるというでしょうが。
 はぁこれがならそれが原因ですよというて話した事でした。お導きをするいうならば応接間に招じ入って二、三人のものが入ろうとしたところが、そこに虎が寝とるもんじゃからびっくりして、怖がってそのう尻込みして出て行くと言った様な事です、けれどもこりゃもう先生がいうならもう中毒ですたいね。もう自分では一時大変辞めようと思うて精進された事があるんだそうですけれども、もうそれこそめぐりの現れとでも申しましょうか、めぐりのお取り払いを頂かないかぎりもう出来ん。
 それでももう信者は信者はだからそれで認めておるけれども、周囲からね。ならお導きでもその方は熱心に信心を頂いておられますし、おかげを受けておられるから、自分におかげ受けておる話をして人を導かれるけも、人が導かれるけども続かない。いうならばその大虎の様子をみて怖がって逃げてしまう訳なんです。我が身が我が自由にならんと、それは自分が行こうと思う所に行きたいとか、手を動かしとるの足を動かしとるの、それとても実をいうたら、おかげを頂かないと出来る事でじゃないのだけれどもです。
 例えばそういう一つのめぐりが絡んで参りますとね、飲むまいもうこれはいかん、これは自分の命取りと分かっておっても、飲まずにはおられない。そこにね、私は業の悲しさというものを感じますです。お道の教師が朝から酔っ払っとって人が助かるはずがないて、こりゃどんな事があってもどうでもというです。私は今朝その事をしきりにあのう思い出させて頂いたんです。そのときお届けさせて頂いた事。そしたら御神願にそれこそもう身の毛のよだつような、気色の悪い御神願を頂いたんですけれども。
 そのう大小便所があるんです。それが大小便で一杯になっとるもんですから、もう両方繋がっとるです。そしたら誰かが小便にいきたいというてやってきとるけれども、一杯でいかれんもんですから、小さいこの位ぐらいの桶にこれにして下さいというて出しちゃった。それが一人行ったら一杯になってどこにか捨てにいかにゃいかん。というお知らせを頂きました。そしてからまた次に頂いた事が、大きなあのうお酒屋さんです。
 もうこの店は昔からはやったお店じゃろうと思う様に、大きな店で樽がずらっとこう並んでおる。棚にはあのう昔は一升徳利、三升徳利、五升がめの一斗がめと言う様に、そのうかめをとか徳利が一杯こう並べてあった。もうそこには全然徳利もなからなければ瓶もないというところなんです。私はそれを今日頂いてからその事から、もう本当にいろいろ思わせられたんですけれども。
 金光様のいうなら金光教という看板をかけたところにゃね、もう絶対お神酒はあるということですよ。金光大神の看板が掲げられとるところにゃ、お神酒はあるんだけれどもです、人が買いに来る時にまぁ今のごとありゃですよ。ありゃもう小さいびんから大きい瓶までみんな瓶詰になってますけれども、昔私共が酒屋をしておった時分は全部五合徳利から、それこそ一升徳利三升瓶、五升瓶と一升瓶と言う様に、酒屋が器を持っておって貸してあげるのです。
 だから酒を買いに行く時に入れ物はないですかというて、初めからおかげの受け物を持って来る者は誰ぁれもおりませんです。そういう人達には一升ですか、二升ですかというて貸してあげなきゃならない。以前はやっぱり棚がこうあるところを見るとあったんだろうけれども、みんな貸し失いをしたり割れたりして無くなってしまっておるというのが、今日頂くその教会の様子じゃなくて、本当に人が助からん助からんと言うておる教会の、言うなら現状じゃなかろうか。
 先代の時には助かっとったけども二代、三代になって助からない、お導きをしても逃げていくと言った様なのはです。先から申しますように、その先生を怖がって逃げるという場合もありゃ、買いに来た場合に入れ物は持って来とるかと言わなければならない、お酒はあるのだ。金光大神の信心といういうお酒はあるのだけれども、それを渡す事が出来ない。あるのが一番隅の方に五升瓶が一つある。ところが昔のあの栓にはキルクがこうはまってましたよね、瓶にこうしてキルクがはまってました。
 そのキルクが破れてガタガタしとる。だからそのかめが一つ残っとる。私はそれを頂いてから。ははぁいうならば五升ということは、あの世死んでからの事。後生を頼む信心ですらもうこの世ではおかげは仕方がない。金光様じゃもう生き生きとしたおかげは頂かれんもんとあきらめてですよ、信心しとる人があるですよ。だから大きな事は人に頼み、どうか体の悪か人は医者に頼みと、言った様な人が沢山信者の中にあるです。
 合楽こそそれはどう言う様なもう無理無理言う様な問題でもです、もう人に頼まんあれに頼まんと神様一心に縋っていくでしょう。さぁ病気をしてもそれこそ医者もいらなきゃ薬もいらんと、言う様な生き方を皆さんが身につけていっとられますけれども、他所の教会じゃそういうことはないです。大きな問題が起こったらもう教会じゃおかげ頂かれんもんと思うとる、そげな事は。
 もう病気したら医者があるんだ薬があるんだという頂き方をしてるんです。まぁそしていうならば、祈れ薬れと言った様なふうな口実というんですかねをしながら、神様に一心に縋ると言った様な、では助からないような教会が沢山あるということ。だからもうこの世では金光様ではなら生きたおかげは頂かれんでも、あの世では神になる事を楽しみに信心せよと言われるから、後生を願おうというその事ですらも、言うならばあるけれども栓がなくて気が抜けっしまうと、言った様な感じを受ける感じました。
 はぁこりゃ他所ごとではない、本当に合楽教会自体だって何時そう言う様な、それこそあじもそっけもないような、アルコール分もない様な事がない、まぁ人が買いにみえた時にです。さぁ家の入れ物に貸して入れてあげれると、言った様なおかげの頂けれる信心を、いよいよ頂いておかなければです、頂いておかなければいけないなと言う事を思わせて頂いて、今日は実はあのう、ここんところの次に御御理解と言う所がありますね、ここんところに、この御理解の御の字を一字頂いたんです。
 けれども二度目にお願いして頂いたのが、今言う我が身が我が自由にならぬものぞという、これはだからサブタイトルなんです。そこで私が思わせて頂くのはです、なら合楽は何をお取り次ぎさせて頂いておるかというとです、合楽の場合にはもうやはり私が力がないから、おかげをどんどん渡しきらんけれども、信心を渡しておる、お徳の受けていけれる道を教えておると言う風に思う。
 この御の字というのはです、いうならば全ての事に御の字をつけて頂くと言った様な生き方、信心の有り難い者はお参りをする、有り難いものを何がなしに感ずる、その有り難いというものをです支えるものは。さぁ今日も一切をです、御の字をつけて頂くぞと言った様な修行の精神からです、御の字をつける頂く頂き方から信心を支えて行く事が出来る、喜びを持ち続ける事が出来る。
 そして先日の月次祭の時に頂きますようにです、それを育てていく働きというものがです、そういう喜びを現していく、御取次ぎを頂いて、御取次ぎを願っていく生き方。信心の真を現していくということに、信心がいやが上にも成長のおかげを頂いてです。いわゆる合楽では、だから受けものを創るという、受けものを創るということはもうそのままお徳なんです。
 私はその半年も前にお取次ぎをさせて頂いたこと、またありありと改めて頂きなおさせて頂いたんですけれども、んならそこにここでお取次ぎを頂いておられるその方は、非常におかげを頂いておられるんです。無い命を助かってそれ以来、一生懸命信心させてもろうて、仕事も事業も実にとんとん拍子でおかげ頂いて、そしてお道の御用も熱心になさっておられる。
 ただ不思議でたまらんのは、自分がこんなにおかげを受けておるのに、人が助からんのはどう言う訳かと言うたら、そこのいうならば初代の時には、おかげ頂いておられたんでしょうけれども、もう貸してあげる徳利もなからなければかめもない、お酒はあるけれども。だからそういう例えばんなら人が怖がるような先生でも、生神金光大神様として頂いて、その方は信心なさっておられるから、力を受けられたお徳を受けられた。だから御自身だけはお徳という受けものがあるから、おかげを受けられるという。
 私はそれからです、金光教の教会というところにゃ、お酒は必ずあるということを今日改めて感じました。だからどういう比礼の立たない教会でもです、その御信者の中にはですね、本当にその教会の先生を生神様と思うて、一心の信心の出来れば御用も出来ると言った方達は、おかげを受けるという事実がある事ですよ。それはおかげの受けもの、教会にはない受けものはないけれども、教会にあるお神酒だけは、毎日頂いて帰っとんなさる、いわゆるお徳を受けとんなさるということが分ります。
 ここには新たに参ってくる人達には、まぁどうやらこうやらなら徳利を貸してあげる事は出来るけれども、なら信心が段々分かって来るとです、その徳利は貸さん、瓶は貸さん自分で作んなさいと突き放すような言い方をするということがです、ここは御理解一本で立っておるということなんです。その御理解がです、いよいよ全ての事に御の字をつけさせて頂けれるような日々であらなければならない。
 我が身が我が自由にならぬものぞと御教えて下さるが、実をいうたら和賀心自体が我が自由にならぬものぞということを、今日私は分かって頂きたい。我が身もです本当にどうにも出来ない、こげんしてお酒飲みよったんじゃ人が怖がる。けれどもねどうにも飲まなければおられないという、我が身が我が自由にならない。私はこれは業を指したもの、めぐりを指したものだと思うですね。けどそのめぐりのお取り払いを受けるためには、また本気での信心がなさらなければいけない。
 昨日研修の時に末永先生が、今日の御理解は大広前を空ける事は出来んぞと、言う様な意味の御理解でしたが、取次ぎ者として実は私が頂く今日の朝の御理解は、取次ぎさせて頂く教師が御結界で、居眠りかぶりどんし取る様な事であってはならんと、言う様御理解であったと思いますと言っております、確かにそうです。御結界でなら居眠りかぶりしとんならば、ちょいと酒飲んでこうやっておおぞりになっとるのと理屈は同んなじ様なものです。もういつ参ったっちゃ先生が御結界座っとられるばってん。
 もうてんで御結界の机にうつ伏せして寝てござると言う様な事であったら、おかげは頂かんということです。だから末永先生がそこを受け止めた訳ですね。はぁ今日の御理解は、御結界で居眠りかぶりで眠気がつく様な事ではならんという、御理解だったというて発表致しました。確かにそうです。だから眠るまい眠るまいとしたんでは難しいてす、もう後三十分で起きんならんと、だからあぁ眠りたいと思う時、眠りたい眠りたいと思うから余計に眠るでしょう。
 はぁ眠れん時にはもうどうかして眠りたいと、ごろごろしとったっちゃ眠れんでしょうが。ところが人間というのは不思議なもんです。はぁ眠っちゃならん、もう後三十分だからと思うとちゃんと眠ってしまう。そして五時なら五時まで過ぎて眠ってしまう。人間のここらへんが不思議な不思議なものがある訳です。そこでです例えば眠っちゃならんと思うと余計眠るような感じがしますから、もう眠らんですむということはです、信心が本当に好きにならなきゃいけないということです。
 御結界に座るということがもう本当に初めの間はお弟子さん方でもです、もう御結界奉仕をすると言うたら、もうそれこそ我先に御用したいです。ところがその事に慣れてくると御結界で眠気が付いて来る。ちょうどそういう初心な心でです、眠ろうと思うても眠られない程しの、有り難い信心を頂く以外にない。眠り癖がついとる、眠っちゃならんと思う、こげなん事じゃ信者は助からんと思う。
 だから眠っちゃならんと思うて、頑張れば頑張るほど眠気がくる。だからとても有り難とうして眠られんと言う様な信心をです。眠ろうと思うても眠られんような信心を頂く以外にゃない、これは大変難しい事であって、いうならばですめぐりに取り組む、業に取り組む程しのものです。自分で自分の眠るまいと思うても、眠うして堪えんという様に、我が身が我が自由にならんという証拠です。
 同時に私は今日はここで和賀心ですらがです、自分の自由に有り難いと思うておっても有り難く思えない。そこで先日のお月次祭の冒頭で申しましたように、お腹がすいたそこに食べ物がある。のどが渇いたそこにお水の一杯がある、雨露をしのがせて頂いておる。それ程しのおかげを頂いておるならばです、それ以上の思い願いというものは我情だ、我欲だと言う風に極端に頂いたですね。ひもじい思いをして食べようと思うけど食べ物がない、はぁ一杯の水が欲しいと思うけれども一杯の水が与えられない。
これなら地獄です。だからそんなら願わなければならない。けれども飲もうと思えばそこに水があり、食べようと思えばそこにご飯がある程しのおかげを頂いておるなら、もうその事に対してもうお礼をもうしあげなければならない。それ以上の事はいうならば我情だ我欲だ、その事が心の底からお礼を申し上げられるようになったら、本当の信心生活ができるという意味です。
 昨日は秋山さんのところの謝恩祭でしたが、本当に年々歳々有り難いお祭りが出来る様になり、宮崎、鹿児島に行っておる子供達もみんな帰って来て、さぁお供えのそのう見事なそのうお供えがしてありましたが、このお三方は私がおかげ頂く、このお三方が私がおかげ頂くと言う風にして、みんな子供達でこれだけの本当にお供えは、何んにも買わずにこれだけのお供えが揃うたと言われる程しの、おかげを受けておられる。
 もう本当に宅祭りちゃどうしてこんなに有り難いもんじゃろかと思いますと、秋山さんが言われるから。それはあなたが一生懸命一心の真をこのようにして現そうという願い、思いが叶うたからですよと言うて話した事でした。あちらに参りましたら、私が書かせて頂いたのが御神前のところの額にかかっておる。それが歌のそれは忘れましたけども、とにかく生きておるということだけに、心の底からお礼が言えれるように、もうひたすらにここに祈りの焦点をおくという意味のが書いてある。
 秋山さん覚えとなさらんですか。何かそういう意味でした。今秋山さんが言いなさったようなお歌ですね。だからそれの意味を言いますとです、生きておるという事だけにでもです、もう満空からの神様へお礼が申し上げれるような、信心を頂きたいとひたすら祈りの焦点を、そこに置くとそう言う訳なんです。また本当にそうですもんね考えてみると。今日お生かしのおかげを頂いておるということだけに、心の底からお礼を申し上げなければおられない程しの信心。
 水一杯が与えられひもじい時には、ご飯が与えられる程しのおかげを頂いておるなら、その事だけでも有り難とうして堪えんという信心にならせて頂いたら。その御神前に向かう時に眠気なんかは、私飛んでしまうだろうとこう思うです。今朝からその半年も前にお届けさせて頂いたところのお教会の事を、思い出させて頂いて改めてそれを思わせてもろうて、そして改めて分からせて頂いた事なんですけれども。
 それはどういう御比礼が立たんと言った様な教会でも、いうならそこの先生を生き神様と頂いて、例えば大虎になってござる先生でも生き神様として頂いてです、一生懸命信心させて貰えば、その方じゃないけれども、成程受けものを作ればどこででも、おかげが受けられるということが分かります。合楽にはそのうどこででもおかげの受けられる、そのおかげの受け物を、皆さんに作って頂こうという事に、中心が置いてある教会だということであります。
 だからどうでも皆さんがです、受けものを頂かなければならん。その受けものを頂かせて頂く事のための信心を頂く、今日私が頂く御の字ということがです、全ての事に御の字をつけて頂くと言う様な、頂き方をさせて頂くところからです、お徳を受けいわばさしもの業のお取り払いを頂いて、自分の心を自由自在に、有り難い方へ有り難い方へと使うていけれる。
 使えんのは業のせいだ、体を自由自在に使う事の出来ないのも業のせいだ、めぐりのせいだ。心を自由自在に分っておる、ここは有り難い事だと分かっておるのに、なんとはなしに腹が立つ、これはめぐりのせいだと、そこでめぐりのお取り払いに焦点を置き、言うならば受けものを創るということに焦点を置き、全ての事に御の字をつけて頂かせて頂ける様な、信心の喜びを支えて行く事が出来る。
 その喜びをもって一日の御用に当らせて貰う、いうならば信心の真をそこに現していく、そこから嫌が上にも信心の成長が叶えられてくる。そこから信心の有り難いという、いうならば信心の気だるさと言った様なものがなくなってくる。眠気がつくのは信心のやはりけだるさからです、何とはなしにこの頃心が神様に向かん、いうなら気だるさが募ったのですね。
 今日はこの御の字を頂く事でしたけれども、いうならその次に我が身が我が自由にならぬものぞと、いうことを頂きましたが、我が身が自由にならんというのもめぐりのせい、自分の心ですらも、自分で自由自在に使う事が出来ない。信心とは和賀心を自由自在に、有り難い方へ有り難い方へと、使わせて頂く稽古。それにはめぐりのお取り払いを頂かなければならない。
 もちろんそこには体の自由をおかげを頂く事でありましょう。そして同時に合楽にはもうそれこそ、いうならば卸しで売られる位なお酒が用意してある、ここに沢山のお弟子さん達が出来るというのは、そういう意味です。もう一升とか二升とかじゃない、もう樽で取りに来る事にならなきゃいけません。ですから皆さんが受けもの次第ではです。どれだけの有り難き勿体なきでも、限りなく頂ける事になるのです。
 合楽の信心はどこまでも、だからお徳を受けてくれよという教会。又はお徳を受ける為にはという教導が、まぁいうならば行き届いてなされておる教会という風に、分かって頂いて合楽に通うならば、本気でお徳を頂く道を学ばせて貰わなきゃならない、今日もまたお徳を頂くための信心を、頂かせて貰わなければならない、という願いのもとに合楽通いが出来なければならんとということであります。
 そしてその根本になるもの。私共がどうしてもです、ここに生きておるということだけにでも、満空のお礼が言えれるような、ひもじい時にはひもじい思いをせんで済むご飯があるということ。喉がかわいた時には一杯の水が与えられる程しの、おかげを受けておるということにです、心の底からお礼の言えれるような信心をひとつ目指したいと思います。
   どうぞ。